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研究の目的と概要

量子色力学の最近の計算によると、クォークとグルオンの多体系は高温高密度状態となると通常のハドロン状態から、クォークとグルオンが大きな体積内を自由に動き回れる状態、即ちクォーク・グルオン プラズマ(QGP)状態に相転移を起こすとの理論的予測が得られている。達成に必要とされるエネルギー密度は高エネルギー重イオン衝突によって十分到達が可能と考えられ、実験室でこの新物質QGPを生成、研究することができよう。ビッグバン直後の宇宙はQGP状態であったと考えられており、QGPが宇宙のその後の展開に与えた影響等、QGPの問題は原子核、素粒子、宇宙物理の基本的問題であるだけでなく、人類の自然認識の根幹に関わる大問題である。

この問題に答えるべくクォークグルオンプラズマ生成を目指し、ブルックヘブン 国立研究所(BNL)ではAGS加速器を用いて、1986年より10AGeV における測定、欧州共同原子核研究機構(CERN)では160AGeVにおけ る測定、さらに、BNLでは100+100AGeVの衝突型加速器RHICが 建設され、CERNでは3000+3000AGeVの衝突型加速器LHCの建 設が進められている。このように様々なビームエネルギーで実験が行われる背景 には、QGP生成とその生成を判定することの難しさもさることながら、最終的 目的であるQGPの性質の研究のために、ビームエネルギー依存性を基軸とした 系統的研究手法の重要性が強く認識されているからに他ならない。

高エネルギー重イオン衝突によるQGPの生成とその性質の研究のために、様々 な測定方法が提案されているが、複雑な原子核・原子核衝突反応を理解し、かつ QGP生成の重要な証拠を得ることの出来るハドロン識別測定は必須である。反 応中心部において生成される様々なパイ中間子、K中間子、陽子を始めとするハ ドロンの生成を個々の粒子の種類を同定しながら測定する方法は、高エネルギー 重イオン衝突で発生した高エネルギー密度状態の統計力学的取り扱いのために必 要不可欠の情報を与える。さらに、ストレンジネス生成量やファイ中間子のハド ロン崩壊の分岐比等の測定は、QGP生成の実験的証拠として重要である。特に、 流体力学的振舞の測定からは、衝突におけるシステムの状態方程式に関する情報 が得られると期待されており、ビームエネルギー依存性の測定からは、QGP生 成時の状態方程式の変化を直接捉えることができる重要な信号となると考えられ ている。

実験技術的観点からは、ハドロンの識別測定を高エネルギー重イオン衝突の高粒 子密度状態で実施することは大変困難である。幅広いハドロンの粒子識別を行う ことの出来、かつ信頼性の高い方法として高時間分解能飛行測定法がある。筑波 大学のグループは高エネルギー重イオン衝突分野の高時間分解能飛行測定で世界 一級の技術を持っており、BNLのE802実験、E866実験、CERNのW A98実験、BNL-PHENIX実験と主要な実験の飛行時間測定器は筑波大 学のグループが中心となって開発・製作・運用を行い、成功をおさめてきた。こ のことからも、筑波大学の高時間分解能飛行測定の技術は世界的に高い評価を受 けている。平成9年にBNLで開催されたOECDメガサイエンス・フォーラム のパネルにおいても、2005年から実施をめざして建設が進められているCE RN・LHCにおけるALICE実験への協力が強く要請された。

高時間分解能飛行時間測定器として様々なタイプのものが知られているが、BN L・RHIC実験やCERN・LHCにおけるALICE実験など超高エネルギー 重イオン衝突では発生する荷電粒子が多いために、検出器のチャンネル数を多数 必要になること、また、検出器上で粒子密度が非常に高くなる。このような条件 下で運用することができ、かつチャンネルあたり安価である測定器として、ペス トフ・スパークカウンターと呼ばれる放電を利用した測定器がある。この測定器 は原理自体は古くから知られているが、余り成功例はなく、主要実験において運 用され成功した例はいまだない。しかしながら、ALICE実験で必要とされる チャンネル数や密度から考えて他の方式では実現不可能である。ドイツのGSI の研究所ではペストフ・カウンターの開発研究を近年進めているが、今一歩とい うところで十分な成功をおさめることが出来ないでいる。さらに後述する幾つか の問題点が明らかになってきている。本研究では、我々の経験とノウハウを活か して、これらの問題点の原因を解明し、解決策を探ることが目的である。

さて、本検出器の研究開発に関して先行しているドイツのGSIにおいて情報収 集を行った結果、次のような重要な情報が得られた。彼らのペストフ飛行時間測 定器では、100ピコ秒を切る高時間分解能を得ることは可能でありながら、そ の分布は純粋なガウス分布ではなく、約5%〜10%の強度を持つ幅が150ピ コ秒以上のガウス分布と重畳された二重構造を示していることがわかった。これ は粒子識別のための飛行時間分婦測定としては致命的な欠陥である。2重構造を 示す可能性として、(1)高速荷電粒子通過時の発生電子数の統計の影響、(2) カスケード時の揺らぎの影響、(3)紫外光発生による飛び火の影響、(4)発 生紫外光のガス中での吸収による放電の局在化の影響が考えられる。ペストフ飛 行時間測定器を実用化するためには、この問題を理解することが先決と考えられ たので、時間経過をたどった電離現象の計算機シミュレーションを行い、まず、 上述の(1)〜(4)の効果について調べることにした。

既知の時間分布における2重構造の原因として、(1)高速荷電粒子通過 時の発生電子数の統計の影響、(2)カスケード時の揺らぎの影響、(3)紫外 光発生による飛び火の影響、(4)発生紫外光のガス中での吸収による放電の局 在化の影響が考えられる。カスケード放電模型を作成し、ペストフ飛行時間測定 器の時間特性の理解を試みた。

その結果、電子なだれ発展過程においては統計的な時間の揺らぎは高々10ps程度 であり、実機の問題点と知られる数 100psの広がりをもつ2重構造の主因とは考 えられない。しかしながら、初期電子数の統計的揺らぎの効果は重要であること がわかった。時間分布の第一成分の幅は主に初期電子発生位置の揺らぎによるこ と、初期電子の発生位置の違いが、第2成分の強度に影響を与えること、また、 初期電子数の増加に伴いカウンター分解能は向上するが、第2成分の強度も増加 することがわかった。さらに、紫外光を入れることによって時間分布に明確な2 重構造が現れ、影響の重要性も明らかとなった。カスケード放電模型計算から、 ギャップ長を拡げることは電子なだれの速度が有限であるために時間分解能の低 下を招くが、一方で、ギャップ長を狭めると、吸収が行われない領域の割合が増 えるために第2成分が増加することがわかった。このために、短ギャップで紫外 光の効率の良い吸収が必要であることが認識された。

ギャップ長を狭め、かつクエンチャーガスによる紫外光の吸収を行うと化学的活 性を持った物質が狭いギャップ間に多く発生する。ギャップ間から排出できなかっ たものは、ポリマー化して電極に付着していき、放電の変化をもたらす恐れがあ る。ペストフ・スパークカウンターでは経年変化・経時変化が問題とされていた。 本研究では、実際にペストフ・スパークカウンターを製作し、経年変化・経時変 化に特に着目したテストを行った。試作したペストフ・スパークカウンターの運 転時間と共に、(1)検出効率の低下、(2)幅が広く時間の遅い第2成分の増 加、が明確に観測された。(2)は、以前より認識されていた問題点でもある。

電極陰極へのポリマーの形成が第1要因であると考えられる。 このポリマーは紫外光の吸収測定からクエンチャーガスとして 使用した混合ガスの吸収領域と陰極物質として使用したアルミニウムの仕 事関数の丁度間隙の波長帯に相当しているために、放電の成長そのものに大きな 影響を与えたものであろう。我々の放電カスケード模型計算からも 時間特性は紫外光発生・吸収に大きな影響を持つことが示された。 一方で、陰極表面の一定のポリマーはその吸収波長帯からクエンチャーガス の働きを補填する物質として考えることも出来る。 ポリマー層が着いた状態でも高電圧をかけることによって、 時間特性の改善を図れるかもしれないが、 ポリマー層が放電のプロセスで発生する以上、長時間の運転において厚み をコントロールすることは極めて困難であると思われる。起こるべき経年変化を 単に引き延ばすことにしかならず、抜本的解決ではない。

陰極への付着を防ぎ、かつ付着物の影響を最小に留めることが現時点で考えられ る最善の策と思われる。提案する方策は、(1)仕事関数の高い陰極物質の使用、 (2)エチレン、イソプレン以外のガスの使用、(3)陰極の高温化、である。 混合ガスの吸収波長領域と陰極の仕事関数の間にギャップを避け、またポリマー を作りやすい二重結合を持つガスを排除するためである。



平成13年5月2日