高エネルギー原子核原子核衝突実験における中心目標は、クォークグルオンプラズマ(QGP)を作り出し、その性質を調べることであるが、そのためには、何をどのように測れば良いのだろうか。クォークグルオンプラズマ状態の生成を示すであろう実験的証拠を"Signature of QGP"と呼ばれ、多くの理論家によって実に多種多様な信号が予想されてきた。現在、次の5種類が特に重要と考えられている。
米国ブルックヘブン国立研究所(BNL)や欧州共同原子核研究機構(CERN)において1986年以来核子当たり10GeV領域〜100GeV領域の実験が数多くなされ、予言どおりの信号も少なからず観測されている。しかしながら、高エネルギー重イオン衝突(衝突の様子を示すムービー)で考えられる反応は非常に複雑なので、正確に予測することが難しく、クォークグルオンプラズマによる効果と高温高密度ハドロンガスの効果を明確に分離できるほど正確に理論計算が現時点ではできないという問題点がある。我々は、高エネルギー重イオン衝突の衝突機構に関するより詳細な情報を収集して、理論の精度を向上させる努力と共に、「予言どおりの信号が一つ観測されても、結論するには十分ではない」という理論の状況から、他種類の証拠を同時に収集することにより理論への制限を強める戦略をすすめている。
高温のプラズマ状態が生成されたことを調べる標準的方法と考えられるのが、その熱的放射の測定であろう。仮想光子からのレプトン対は、クォークと反クォークの対消滅から生成されることからクォークの運動状態を直接反映した測定量であり、生成された光子やレプトンは2次的散乱を起こさずに高密度反応領域を抜け出してくるので、衝突初期に達成された温度や密度に関する情報を直接得ることができる。但し、QGPからの熱的放射だけでなく、ハドロンガス中のパイ中間子対消滅過程、ベクター中間子の崩壊、ドレルーヤン過程による寄与なども大きいと考えられており、いかにしてこれらのプロセスのなかからQGP成分を抽出するかが問題である。ピークなどの構造のないスペクトルの測定なので、極端な増加が認められない場合には観測は非常に困難と思われる。しかしながら、高温状態の直接測定を行えるという利点から考えて重要な測定量の一つであろう。
最近の格子QCD の計算によると閉じ込めからの解放とほぼ同一の温度・エネルギー密度でカイラル対称性の回復が起こると考えられている。カイラル対称性は粒子の質量と深い関わりを持ち、対称性の回復により粒子質量が変化する。初田氏らの理論計算からは、相転移前の高温・高密度状態においてρ、ω、φ などのベクター中間子の質量や幅が変化すると予言されている(T.Hatsuda and S.H.Lee: Phys.Rev. C46(1992)R34)中性ベクトル中間子のレプトン対崩壊が最も効果的な探索モードである.レプトンは高密度媒質中を殆ど相互作用の影響を受けずに通り抜けるからである.
SPS−CERES 実験によると陽子・ベリリウム原子核衝突と鉛・金衝突では、観測される電子対質量分布に質的な違いがあるという。ベリリウム原子核は十分に小さな原子核であるので、ほぼ核子・核子衝突と考えて良い。陽子・原子核衝突では電子対質量分布は既知の様々な中間子からの崩壊によって定量的に理解することが出来る。ところが、同様なシナリオで硫黄・金原子核衝突や鉛・金原子核衝突から得られた電子対質量分布を解釈しようとしても、うまくいかないのである。電子対質量が0.4GeV/c付近で収量が増大しており、従前の既知の中間子崩壊の重ね合わせではどうにも説明が出来ない。この増大現象は荷電粒子多重度の増加と共に大きくなり,また電子対の横運動量が500 MeV/c より低い領域で著しい。この現象を既知のハドロン衝突から説明する幾つかの模型が提案されているが,観測結果を満足に説明できていない.
ρ中間子の寿命は非常に短いため、その崩壊に反映される状態は衝突の極初期の高温高密度状態であろう。その状態ではρ粒子の質量が真空中の質量より軽くなっているため,このρ粒子からの崩壊電子対が問題の領域の収量を増加させているという意見がある。もしそうであれば,これはQGP シナリオのカイラル対称性の部分回復を支持している.
通常のプラズマに関して良く知られた現象として、デバイ遮蔽の効果がある。プラズマ中に正電荷を持ち込んで静電ポテンシャルを作ると、プラズマ中の電子が集まってきて、正電荷の作る静電ポテンシャルを打ち消すように振る舞うために、プラズマの温度と密度で決まる距離(デバイ半径)以上には電荷の作用が到達しなくなる。この現象がデバイ遮蔽効果である。QGP においても同様な現象が起こるのではないかと初めて考えたのが松井哲男氏であり、彼はH. Satz 氏と共にQCD におけるデバイ遮蔽効果観測を提案した (T.Matsui and H.Satz;Phys.Lett.B178(86)416)。QGP においてデバイ遮蔽効果の有無を調べる良いプローブと考えられるのが、J/ψ粒子である。この中間子はチャーム・クォークとその反クォークから成っており、この間に働く力によって粒子が保持されている。ところが、デバイ遮蔽によってクォーク間に働く力の源とされるクォークの色電荷が打ち消され、その作用が届かなくなると、J/ψ粒子は壊れてしまう。ところで、J/ψ粒子は質量が非常に大きいため、衝突の最も初期の1 次核子・核子衝突においてのみ生成され、衝突エネルギーが低くなる2 次衝突以降では生成されない。従って、1 次衝突において生成されたJ/ψ粒子がQGP を通り過ぎて出てくる場合には、通常のハドロンガスを通過する場合に比べて収量が小さくなるだろうというのが理論的予想である。
CERN のNA38 /50 実験グループは、NA50 がμ粒子対を用いてJ /ψ粒子をp +A からS +U 衝突まで系統的に測定した.Drell-Yan
過程からのμ粒子対について調べたところ、陽子・原子核の衝突から鉛・鉛衝突に至るまで生成率は一定であり、核子・核子1 次衝突の頻度の良い目安となっていることがわかっている。このため、図4ではDrell-Yan
過程からのμ粒子対に対する比で示してある.
陽子・原子核の衝突から硫黄・ウラニウム衝突に至るまではJ /ψ粒子の収量が指数関数的に減少する傾向があることがわかる。これはJ
/ψ粒子が通常の核物質との2次的衝突によって失われたもので、通常の核物質中においてJ /ψ粒子が7.2 ±1.2 mb の吸収断面積を持つことによって説明される。理論的に断面積の値も定量的に理解されている。
ところが、鉛原子核同士の衝突では、この指数関数的減少から、さらに減少していることが観測されたのである。通常の核物質による減衰とは質的に異なっており、これはQGP
相転移など何らかの閾値を持った現象であることを強く示唆していると思われる。
QGP相ができた後、急激な膨張による冷却のため再びハドロンの状態にもどる。このときに大量に発生するハドロンを調べることによっても、QGP相の様子を知ることができる。なかでも、高温ハドロンガスの寿命の測定は、重要である。もし、粒子(主にパイ中間子)が、QGP相を経て発生した場合には、そうでない場合に比べ、高温ハドロンガスの寿命が長くなると考えられるためである。測定方法として、
の2通りが提案されている。HBT効果は、2中間子を同時に計測するときに、その量子力学的干渉のために発生源のサイズの逆数に相当する相対運動量以下で収率が増大するという効果である。HBT効果を3次元的に解析すると、衝突点から外向き成分の相対運動量は時間成分に対応するので、パイ中間子の発生源の寿命を測ることができる。
ベクター中間子の収量を見る方法も注目されている。高温ハドロンガス中で化学平衡が達成されている、寿命の短いベクター中間子(例えば、ρ 中間子)は、ハドロンガス中でつぎつぎに崩壊し、崩壊した分は化学平衡によって補充されるので、寿命の長いベクター中間子(例えば、 ω 中間子)に比べてその時間積分した収量は増大する。高温ハドロンガスの寿命とそれぞれのベクター中間子の寿命に応じて、ベクター中間子の収量比が変化する。
パイ中間子、K中間子、陽子などのハドロンの測定は、QGP生成の信号として有用であるだけでなく、QGPの様々な信号を理解するうえで必要不可欠な重イオン衝突の反応機構の理解のためにも重要である。パイ中間子だけからなる高温度高密度状態ではパイ中間子の新規生成のために温度がパイ中間子の質量程度以上には上昇しない。ところがQGPではその制限がなくなるので、温度の上昇が期待される。実験的には、温度に相当するパラメーターである平均横運動量の増加を検出する。BNLーAGSやCERNの実験で観測されたストレンジネス増大効果や宇宙線実験JACEEで報告された平均横運動量増加のQGPの信号も重要と考えられる。ストレンジネス増大効果は、高温ハドロンガスにおいても、同様の効果が現われることが理解されてきたため、QGP生成を示す十分条件ではないが、必要条件としての利用価値および化学平衡の状況を知るうえで重要な測定である。